無限大の叡智から、どうしても書いて欲しいといわれていますが、受け取り方に誤解が生じやすいという事と、精神論等、深さが必要になって行くものになりますが、ざっくりとした説明になってしまいますが、書いて行きたいと思います。
神の道具という言葉をご存知かもしれません。過去の文献等にも出て来る言葉ですが、どの様な意味が込められているのでしょうか。
神の道具の行きつくところは、人間全てであると叡智での応えですが、人の中心軸は、神意識と言われているものですので、その中心軸から人間の意識は備わっていると考える事もできますが、やはり長くなる事が想定できますので、結論は、愛に対するバランス率という事が伝えたい事柄です。
そしてもうひとつ、事前知識が必要になって行きますが、再確認として、今の人間は「愛」に関して、課題となって行く時に当たりますので、全ての方の魂の課題は「愛」に関して触れて行く課題になっています。
話しは神の道具に戻りますが、神の道具は、上手く表現できないかもしれませんが、その時代の背景を背負いながら、世界規模に近い位、あるいはその文化に根付いている事柄に関して、一時でも、ある一定量の話題になるような社会的な現象とも言える事柄の中心軸を持つ人が、聖なる道具と言います。
その様な中心人物を通して、多くの人の神意識から発せられた、それぞれの持つ愛の意識に触れて行く事になります。
愛に触れるという意味では、主イエス・キリストは、「聖なる」神の道具としての役割を担っていました。そのほかには、マリーアントワネットは、多くの人の愛に触れる様な聖なる神の道具としての役割を担っていました。
本来は無条件に人を愛することが、愛というものですけれども、では愛とは何だという事にもなって行くと思います。
日本の小説では塩狩峠という、わかりやすい物語がありますけれども、愛については、深い内容になって行きますので、永遠の課題かもしれません。